開発者インタビュー

EJ20スペシャルコンテンツ 開発者インタビュー EJ20スペシャルコンテンツ 開発者インタビュー

初代レガシィの開発は、
若いエンジニアにとって
とてもワクワクする経験でした。

スバルテクニカインターナショナル株式会社
代表取締役社長 平岡泰雄(ひらおか やすお)

スバルテクニカインターナショナル株式会社 代表取締役社長 平岡泰雄(ひらおか やすお)

スバルテクニカインターナショナル株式会社
代表取締役社長 平岡泰雄(ひらおか やすお)

1989年に誕生したEJ20には、水平対向エンジンへのこだわりやモータースポーツへの構想など、今日のSUBARUのアイデンティティとなる強い意思が込められていました。それは、どのようなものだったのか……。
EJ系エンジンの初期から設計担当者として開発に携わり、その後スバル技術本部 エンジン設計部 部長としてEJ系エンジンの進化やFA/FB系エンジンの企画を推進した平岡泰雄スバルテクニカインターナショナル(STI)社長に語ってもらいました。

 まずEJ20を開発するにいたった背景から、お聞かせいただけますか。

EJ20を語るには、まず富士重工業(当時)が、水平対向エンジンを採用したところまで遡る必要があると思います。その原点は、私たちの会社が航空機メーカーをルーツとしているところにあるでしょう。大先輩が当時決めたことで、その場に私がいたわけではありませんが……

たぶん飛行機屋としては、「走る」・「曲がる」・「止まる」ことを高次元で実現するために『左右対称でシンメトリー・低重心であるべき』という運動性能にこだわったのだと思います。

EJ20を搭載した初代レガシィの開発は全社をあげての一大プロジェクトで、過去からの踏襲や妥協を一切捨て、クルマとしてあるべき姿をゼロから追求するという目標が掲げられました。そんなプロジェクトの一環として、水平対向エンジンに未来を託しEJ20が生まれました。新しい生産ラインとして大泉工場も建設されました。開発部門だけでなく製造部門も含めて社運をかけたプロジェクトだったのです。全社員が不退転の思いで、真剣に取り組んだことを覚えています。当時、私のような若いエンジニアにとっては、とてもワクワクする経験でした。

一方、SUBARUはスバル360の時代から居住空間を大事にしてきた会社です。機能合理主義を貫くエンジニアたちにとっては、室内空間の確保という点からも水平対向エンジンのメリットは重要だったのだと思います。直列4気筒エンジンを縦置きにするとトランスミッションが室内に入り込み、居住性を損なうことになる。横置きにするとシンメトリーにはならない。これに対して水平対向は、シンメトリーであり、前後長も短くできる合理的な答えだったのです。

そして、水平対向エンジンのもうひとつの重要なメリットが、シンメトリー構造の4WDをつくれるということです。4WDはハイパワー車をより的確にコントロールして安全に走らせることができます。その特筆すべき運動性能がSUBARUのスポーツ性能に大きく貢献してきました。水平対向エンジンを核とするSUBARU AWDは、今日のSUBARUのアイデンティティである「安心と愉しさ」の原点なのです。

 EJ20の“シンメトリー”という特性が運動性能を高め、スポーツ性能に貢献する。そのアドバンテージが、WRCへの挑戦につながるわけですね。

はい。まずレガシィ発売の直前に10万km世界速度記録への挑戦が実施されました。米国アリゾナ州に100人を超える社員が1ヶ月以上にわたり集結する大きなプロジェクトでした。渾身の力をこめて開発したクルマを世に問うために、きっちりと記録に残る挑戦をしたかったのです。ドライバーはプロではなく全てSUBARUの社員でした。このイベント開催をまとめたのが設立されたばかりのSTIでした。

この後1990年からWRCへ本格参戦することになりますが、そこには「SUBARUを世界一にする」というSTI初代社長久世さんの強い思いが貫かれていきます。WRCという世界の頂点で勝つことは容易ではありません。初優勝は1993年のニュージーランドですから、3シーズンの間、ひたすら勝利を目指した地道な闘いがあったということです。そもそも水平対向エンジンを基本とするシンメトリカルAWDは、悪路も含めた世界のあらゆる道を舞台に、市販車ベースの車両で競い合うWRCにおいて、アドバンテージとなるメカニズム。その基本性能の高さを信じ、全社一丸となって挑戦し続けました。

 モータースポーツへの挑戦こそが、SUBARUを証明する場になったと。

そうです。モータースポーツを通してSUBARUブランドを高めていく。この想いに象徴されるようにSUBARUという会社は、とにかくチャレンジし続けることを理念としてきました。自動車メーカーとしては小規模な会社であるからこそ、挑戦という強いメッセージを発信し続けることが大切です。そして、お客様は小さなSUBARUの果敢なチャレンジ精神と真摯なモノづくりに共感してくださり、勝っても勝てなくてもモータースポーツへの多大なる応援をいただいています。そういう意味で、モータースポーツへの挑戦は、チャレンジ精神あふれるモノづくりとお客様をつなぐメッセージなのです。

現在、SUPER GT、ニュルブルクリンク24時間レース(NBR24)に挑戦していますが、サーキットやパブリックビューイングに来てくださったお客様に絶大なる応援をいただいています。そんな光景を目の当たりにすると、SUBARUの思いはお客様にしっかりと届いていると肌で感じています。

 30年、モータースポーツとともに進化を続けたEJ20。その素性の良さとはなんだと思いますか。

私たちがEJエンジンを開発していた当時、将来的には高出力化が必須であると確信し基本設計へ綿密に織り込みました。5ベアリングのクランクシャフト、DOHC、ショートストローク、ターボなど。水平対向エンジンのメリットを最大限に引き出す高回転・高出力エンジンへの基本骨格が形成されていきました。そこにはスポーツエンジンとして極めて高いポテンシャルが込められていたのです。

耐久性という点では、左右のブロックでクランクシャフトを支える水平対向エンジンの構造が有利に働いています。その剛性の高さは、当時は珍しかった軽量なアルミ合金製ブロックも貢献していました。また、ビッグボアならではの燃焼の難しさも、チャレンジのひとつで、後に燃費向上のために燃焼を基本から見直す必要に迫られました。いろいろな課題があるなかで、燃焼室への流入空気を縦渦にするか横渦にするかという技術が大きな取り組みでした。膨大なシミュレーションや数限りない試験を実施し導き出したその技術は今でも生きています。

さらにAVCSの搭載、ターボチャージャーやインタークーラーの高効率化など、様々な進化を果たし、S208に搭載されたエンジンは329馬力となりました。1リッターあたり150馬力以上となる高性能を実現し、30年におよびスポーツエンジンとして第一線で活躍できたことは、EJ20の基本設計の高さの証明であると言えます。

 
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世界のノウハウを必死に吸収し、
時を忘れがむしゃらに
闘っていました。

株式会社SUBARU 第二技術本部 エンジン設計部 
岩井智俊(いわい ちとし)

株式会社SUBARU 第二技術本部 エンジン設計部 岩井智俊(いわい ちとし)

株式会社SUBARU 第二技術本部 エンジン設計部
岩井智俊(いわい ちとし)

1990年からSUBARUは英国のプロドライブ社とタッグを組みWRCに挑みました。そこで、どのように世界チャンピオンへと駆け上がり、量産車へ技術がフィードバックされていったのか……。
WRC参戦当初から2008年まで、SUBARUでWRC用エンジンの開発・設計に携わった岩井智俊元リーダーに語ってもらいました。

 WRCへの挑戦はどのように始まり、世界の頂点へ駆け上がったのでしょう。

1990年レガシィでWRCへの本格参戦が始まりました。STIが創設されたのもこの頃(1988年)ですね。当時のSUBARUには、世界で戦うための技術やノウハウはゼロに等しいものでした。そこで世界のモータースポーツの中心である英国のプロドライブ社とタッグを組むことになりました。

WRCのエンジンを三鷹の地で開発することになった経緯は、当時若手だったので分かりかねます。でもエンジンはクルマづくりの心臓です。だから、エンジンはSUBARUで、シャシーはプロドライブで、という体制が決まったのだと思います。

WRCのレギュレーション上、レ-スエンジンは、量産エンジンベースでなければならないため大部分は日本で開発しており、設計をSUBARU、組み立てとベンチテストをSTIが担当しました。レ-スにはSTIのエンジニアが帯同し、問題発生時は日本から派遣されたエンジニアが現地で対策を協議して、プロドライブもしくはSUBARU、STIで対応していました。

 まさにグローバルな体制で臨んだのですね。

WRC参戦当初、SUBARUはまだ本格的なレースエンジンを手がけたことがなく、トラブルが日常茶飯事でした。その対応は急務であり、プロドライブでメンテナンスやオーバーホールにあたりました。プロドライブにはモータースポーツに従事する世界トップレベルのエンジニアが集まっており、私たちは世界のノウハウを必死に吸収していきました。とにかく少ない人数でエンジン全体を見ていましたので、私をはじめ若いエンジニアたちは、時を忘れがむしゃらに闘っていた時代です。

1990年6月のアクロポリスラリ-から、およそ3シーズンを経て1993年のラリーニュージーランドで初優勝。ようやく世界と互角に戦えるようになりました。その頃には、年に数回、定期的にプロドライブへ行ってミーティングを行ない、SUBARUが開発をリードするまでになっていました。

当初はプロドライブに助けられて設計や部品を製造していましたが、次第に性能面の開発は、設備が充実しているSUBARU、STIで担当するようになっていたのです。時間はかかりましたが、現場での経験を基にノウハウを蓄積し、一歩一歩地道に進めたことで、それなりの組織へと成長できました。

 プロドライブとタッグを組んで、印象に残ったことは。

当時のエピソ-ドですが……プロドライブの人たちはとてもプライドが高く議論では一歩も引かないので、私たちが主張を通すには技術で説得しなければなりませんでした。ただいいモノを作ると素直に認めてくれるところは、まさに英国紳士でしたね。つねに結果で勝負していたからこそ、私たちの技術力が伸びたのだと思います。

私が感じたプロドライブの人たちの凄さは、ラリーカ-への搭載を考慮してエンジン全体をまとめ上げる総合力でした。無駄のない美しい仕上がりは、私たちにはない、センスや発想でした。例えば、日本人が軽量化をしようと思うと小さなところからコツコツと削っていくけれど、彼らは長年の経験とセンスから驚くほどの軽量化を進めて行く。同じ不具合の対策を考えても、それぞれの個性が出るところが面白かったです。

 だから世界トップクラスのチームにまで成長できたと。

多様な人間が集まって議論をし、それぞれの個性を発揮しながら作り上げていくことで、新たな発想が生まれ、斬新な解決策が講じられる。文化や考え方が違う人間が集まることは、ひとつの財産だと思いました。同じような考えの人間が集まった日本は大量生産が得意です。それに対して多様な民族や文化が入り混じって生まれる欧州の発想力は凄いなと実感しました。まさにそこがSUBARU ワールドラリ-チームのメリットだったのです。

 WRCで培った技術は、どのように量産車へフィードバックされたのでしょうか。

SUBARUはモータースポーツの組織も小さく、STIのエンジニアもSUBARUの技術本部に同居していました。WRCを担当する私も、じつはSUBARUの量産部門の中に籍がありました。WRCのエンジンを量産エンジンベースで開発する関係で、SUBARUの技術本部のなかにいた方がお互いの情報交換がしやすいというメリットがあったのです。当時、量産部門はライバル車と苛烈な競争をしていましたから、ターボの開発をはじめ、耐久信頼性の向上など量産部門とモータースポーツ部門が情報を共有しながら互いに進化していくという成果をもたらしました。

 組織のつながりの強さが、功を奏したのですね。

そうかもしれません。1997年以降、タ-ボをはじめ改造範囲が大きいWRカーの時代になります。それ以前(グル-プA)はレギュレーションが厳しく、ブロック、ヘッドはもちろんターボまで量産車そのままで、カム、クランク、ピストン、排気系のチューニングが中心でした。WRカーは、ターボやインタークーラー、インテークマニホールドなどの自由度が広がる一方で、エアリストリクターをはじめ様々な厳しい制約が設けられていました。そんな厳しい状況のもとで、基本性能を磨き上げた結果、数シーズンにわたり世界のトップと互角に戦えるようになりました。WRCを通じ、こうした試行錯誤で得た技術が、現在のWRX(量産車)に継承されているのです。

 EJ20はモータースポーツと量産車を見事に結びつけたエンジンだったのですね。

はい。1989年に誕生したEJ20ターボは220馬力。それが2017年のS208では100馬力以上も性能が向上しています。この間、耐久性を上げるために私たちが先行して持っていたノウハウが投入されることもありました。詳しくは言えませんが、モータースポーツからのフィードバックは、相当入っています。私たちは水平対向エンジンの良いところはさらに伸ばし、デメリットは可能な限り小さくするよう努力を重ねてきました。とくにトルクアップと燃費向上は普遍的な課題で、それは量産車もレースも同じなのです。

 量産車へのフィードバック以外に、モータースポーツから得たメリットとは。

それは“スピリット”ですかね。ペター・ソルベルグがファンとラリーチームを愛してくれたことは、SUBARUにとって大きな意味があったと確信しています。ペターは、底抜けに明るい性格で、勝てない時はなおさらクルマもチームも良くなるように様々な現場を盛り上げてくれました。スピーチはもちろん、サイン会にも気軽に応じてくれたり、そんな心からのファンサービスは、多くのSUBARUファンを熱くしました。そして、開発現場にエンジニアを訪ねるなどお互いの理解を深めようとする惜しみない努力も見せてくれました。チームの絆を深めようというペターの姿勢やファンの熱い声援が、どれだけ私たちを奮い立たせたか計りしれません。

諦めない強い信念を持ち、ファンの熱い想いに背中を押され、チームがひとつになって理想とするクルマづくりに挑む。モータースポーツは、その原動力となる大きな力をSUBARUに授けてくれたのだと思います。

 
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SUBARUにとって
モータースポーツへの挑戦は、
未来を拓く人材を育む場所でした。

株式会社SUBARU 商品企画本部
嶋村 誠(しまむら まこと)

株式会社SUBARU 商品企画本部 嶋村 誠(しまむら まこと)

株式会社SUBARU 商品企画本部
嶋村 誠(しまむら まこと)

SUBARUのクルマづくりは、30年にわたりモータースポーツとともに発展してきました。その根底にあるモータースポーツと量産車開発の相乗効果とは、どのようなことなのか……。
1990年からNBRチャレンジに至るまで、30年にわたりSUBARUのモータースポーツの現場で、研究開発を実践してきた嶋村誠 元担当エンジニアに語ってもらいました。

 量産車開発にとって、モータースポーツはどのような相乗効果をもたらしましたか。

モータースポーツは、先行開発した技術の検証やそのフィードバックが目的であると言われます。でも私たちが30年間やってきて、モータースポーツの最も有意義なところは技術と共に人を鍛えることだと感じています。

量産開発は、構想から生産まで4〜5年の時間をかけて仕上げていくものです。不具合が起きては絶対にいけないものなので、じっくりと検証を重ねていく作業です。これに対してWRCは、1戦終わると翌月には次のレースがあり、これを絶え間なく1シーズン続けます。そして翌シーズンが始まると、モデルが新しくなります。1戦1戦の対策は、細かく規定されたレギュレーションに沿って行われ、短期間で結果を出す必要があります。と同時に、次年度を見据えた開発にも取り組まなければなりません。短期間の課題と中長期の課題を同時に対応することで、WRCにかかわったエンジニアは、否が応でも鍛えられていきます。それはモータースポーツを通じて得た、大きな財産の一つなのです。

 1戦1戦の真剣勝負が、技術を磨く学びの場になるわけですね。

はい。私は量産ベースのクルマ(グループA)でサファリラリーに挑戦するSUBARUに憧れて1989年に富士重工業(当時)に入社して、はじめて触ったエンジンがEJ20でした。以来、ずっとEJ20とともに車両開発に携わってきました。WRCへのワークス参戦は2008年で終了しましたが、その後はグループN、NBR24と今日まで続いています。この30年間を振り返ると実に多くのエンジニアがモータースポーツの現場でEJ20に関わってきました。そして量産開発に戻ったあと、多くのプロジェクトでリーダー的な存在となってSUBARUのクルマづくりを力強く牽引しています。SUBARUにとって、この30年におよぶモータースポーツへの挑戦は、未来を拓く人材を育む場所だったのではないでしょうか。

 どのような技術がモータースポーツからフィードバックされたのでしょうか。

私が初めて携わったWRCは1990年のサファリラリーでした。悪天候であちこちに出現した“マッドホール”と呼ばれる巨大な泥の水溜まりにより、初日に数台のエンジントラブルが発生してしまい、いきなり厳しい洗礼を受けたことを未だ強烈に覚えています。

91年から92年頃は、WRC参戦のパートナーであるプロドライブ社に駐在して、日本にいる岩井さんと密にコミュニケーションを取りながら日英での共同開発を進めていました。WRC参戦当初は、とにかく性能向上と信頼性確保の両立に尽力しました。93年ラリーニュージーランドが念願のWRC初勝利です。その後マシンをインプレッサに切り替え、世界トップクラスのマシンと勝負できるようになりました。

1997年から導入されたWRカーはターボにリストリクターが付いているので、高回転まで回してもパワーが出ない、エンジニア泣かせのレギュレーションでした。そこで低速トルクを上げるためにアンチラグシステムを採用しました。

低速トルクは量産車にとっても共通の課題でした。数年の開発期間を経て2002年に発表されたGDB C型通称“涙目”では、エキゾーストマニホールドが等長配管になるとともに、ツインスクロールターボが採用され、低速トルクが大きく上がりました。それ以前は回転が上がってからいきなり加速するので、“ドッカンターボ”と言われていましたね。

そして2006年からWRCのレギュレーションがさらに大きく変わり、電子制御系の制限が課されるなか、量産開発の部隊をWRC開発に投入して、サス、デフ、空力、重量配分でトータルにトラクションを稼いでタイムアップを目指す研究開発を進めました。

 チームとしてともに戦ったドライバーたちの印象は、どうでしたか。

歴代のWRCドライバーを振り返ると、何も言わずにとにかく与えられたクルマを最大限、速く走らせることに徹するドライバーもいれば、車高やバネ定数、スタビライザー径までクルマのセッティングに対してとても細かく気にするドライバーもいました。なかでもペター・ソルベルグは、重量配分にすごくこだわり、低速ではフロント荷重が大きくなるように、高速ではリヤウイングによってダウンフォースを高めるというセッティングを要求しました。

 SUBARUのドライバーに共通するドライビングスタイルはあるのですか。

運動バランスに優れるSUBARUはステアリングできっかけを作っても、すぐに戻してアクセルでヨーコントロールをしながら速く走るドライビングスタイルのクルマです。SUBARUで世界チャンピオンをとったコリン・マクレー、リチャード・バーンズ、ペター・ソルベルグの各選手は、皆同様にタイヤが理想的な摩耗状態でサービスに戻ってきたのを覚えています。

また、水平対向エンジンの優れた回転バランスは、ハンドリングへのメリットも大きく、ペターも好きだったと思いますよ。

シンメトリカルAWDというプラットフォームがずっと変わらないから、SUBARUは30年の長きにわたってハンドリングのノウハウを蓄積できたのかなと思います。他社は直列4気筒エンジンを前に積んでいてフロントヘビーなので、電子制御と強いトルクを使ってストップ&ゴーで走るクルマ。これに対してSUBARUは運動バランスを生かして高いコーナリングスピードを維持して走るクルマなのです。

そして、ペターは2003年に世界チャンピオンをとった後、トップ争いが厳しくなった時期でもSUBARUを離れなかった……そんな理由を考えるとペターはSUBARUのクルマはもちろんのこと、チームが好きだったのかなと思います。SUBARUもプロドライブも気質が似ていて、諦めずに、粘り強くとことんやり抜くチームだったから、それが良かったのかもしれませんね。

 その後、戦いの舞台はNBRへと展開していきましたね。

はい。WRC参戦、最後の年と重なりますが、2008年頃から量産開発では、試験車をNBRで鍛え上げるプロジェクトが始まりました。リーダーは当時STI車両実験部長であり、NBR24のチーム監督でもあった辰己さんです。メンバーにはWRCを手がけていた者も含め、エンジン、車体、足回り……一通りのエンジニアが召集されました。WRCの経験も活かしながら、通常では考えられない大胆なアプローチを試しながら、現実的なアプローチをとことん考え、動力を最大限に路面へ伝えることができる車体が作られていきました。その考え方は、後年開発されたスバルグローバルプラットフォームにも継承されていると思います。

 改めてEJ20がSUBARUに果たした役割とは何でしょう。

現在、量産車で水平対向エンジンを作り続けているのはSUBARUとポルシェだけです。30年間もEJ20にこだわり続け、デビュー時から基本レイアウトはそのままで320馬力以上まで性能を上げることができました。それは、WRCをはじめとするモータースポーツ活動のノウハウがあったからこそ可能になったのだと思います。

ターボエンジンは燃焼圧が高いので、ブロックの強度がとても重要です。軽量化のためにアルミブロックとし、ターボで300馬力以上の性能を出力するのはとても難しいことです。現在レヴォーグやS4に搭載されているFAエンジンでも研究を重ねた結果として300馬力が可能になったのはEJ20があったからに他なりません。そして、世の中がSUBARUに速さを求めているから、それに応えなければならないという強い想いがエンジニアたちの礎になっていると思います。

 今後もその技術は受け継がれていくと。

SUBARUにはモータースポーツで活躍する姿を見て、それに憧れて入社してきた人が多い会社です。モータースポーツは、同じスピリットを持った人材を磁石のように引きつける魅力があります。今後は世界的な流れで、モータースポーツも電動化になっていきます。水平対向エンジン+シンメトリカルAWDは、重量バランスを有利に保ちながらハイブリッド化しやすいレイアウトなので大きな可能性があると思っています。もともとSUBARUはAWDの運動性能を高める技術をどこよりも持っています。そのことは電動化の時代になっても、SUBARUに大きな可能性をもたらすと信じています。

 
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